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制作者より

制作当時のままですので、現状と異なる文面もあります。ご注意そしてご了承お願いします。

Part1

1947~1949年生まれの人のことを「団塊の世代」と呼ぶ。ここでは、彼らによるミュージック・シーンを見てみよう。 1966年、ザ・ビートルズが来日した。世間では若者が彼らの来日によってワーワーキャーキャーの大騒ぎに。 そんな彼らの前座になったのが「ブルー・コメッツ」。1967年の「ブルー・シャトウ」がレコード大賞を受賞する程実力バンドだった。 しかし彼らは「団塊の世代」ではない。1966~1968年にかけて多数のバンドが存在した。 例を挙げると、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズ、ザ・タイガースなど。 スパイダースは60年代前半からのバンドなので団塊ではない人もいる。 後年に加入した堺正章らは団塊の世代と言えよう。「夕陽が泣いている」などの曲がヒット。 そして1967年に結成したタイガースは圧倒的な支持を受けた。 やはりファンを失神させる程の人気を持った沢田研二(愛称 ジュリー)が中心的人物だろう。 「モナリザの微笑」「銀河のロマンス」などの曲でリードボーカルとなり、曲も大ヒットした。 しかし、1968年の大ヒット曲「花の首飾り」のリードボーカルは彼ではなかった。 個性的な声を持ち、影の薄いギターの加橋かつみだったのだ。 しかし、映画「ザ・タイガース~世界はボクらを待っている」ではプロモで沢田が出ていた。 ジュリーは完全にアイドルになっていた。

(補足)
GSが大流行したのは1967年~68年。ブルー・コメッツやスパイダースはもう少し前から活動しているが、タイガースのデビューは1967年だった。この頃テンプターズも人気グループに。1968年デビューグループではオックスか。 しかし、このあと下火になるのがGSの運命…。ここでは紹介できなかったが、ザ・ワイルド・ワンズは今も現役。 1966年に結成したこのバンドは突出した人気を持つ人も現れず、またケンカも起きず、またメンバーチェンジもなしで40年を迎える。メンバーも、このバンドの名付け親の加山雄三も考えてはいなかったことだろう。 これは2006年に来日したローリング・ストーンズでさえもできなかったことを、成し遂げたのだ。これは素晴しいことである。

Part2

グループ・サウンズ・ブームは数年で去り、ほとんどのグループも解散してしまった・・・。 そして1970年代にはフォーク・ミュージックが流行した。 主なアーティストといえば、吉田拓郎、グレープ、赤い鳥、イルカなどが挙げられる。これらのアーティストは大体団塊の世代である。 この頃20代半ばになった団塊の世代は「結婚」について真剣に考えるようになった。それもあってか1972年に吉田拓郎の「結婚しようよ」「旅の宿」が連続ヒットした。吉田拓郎によってフォークは表舞台に出た、と言っても過言ではない。しかしフォークシンガーはライブという形でファンを広げ、ほとんどの人がテレビを敬遠した。 フォーク・グループのヒット曲といえば、かぐや姫「神田川」、赤い鳥「翼をください」、グレープ「精霊流し」チェリッシュ「てんとう虫のサンバ」などが挙げられる。 一方、ロックバンドもこの頃存在していた。1975年、「アンタ、あの娘の何なのさ」という流行語を生み出した ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は大ブレイクした。他には、キャロル・RCサクセション などもいたが、正直この頃ロック事情は厳しいものであった。 GSのときのボーカルもこの頃ソロデビューしていた。1977年のレコード大賞受賞曲は沢田研二「勝手にしやがれ」 だった。この頃はGS時代には出させてもらえなかった紅白歌合戦にも出場し、「トリ」も勤めたほど。 他には、元スパイダースの堺正章やかまやつひろし(ムッシュかまやつ)もソロデビューしていた。 (スパイダースやタイガースについてはPart1を参照のこと) あと、団塊の世代のアーティストではないが、女性シンガーソングライターが現れたこともこの頃。 荒井由実(現・松任谷由実)や中島みゆきが登場してきたことも特徴の一つである。 この頃のアーティストで線引きが難しかったのがアリスだ。「チャンピオン」「冬の稲妻」などのヒット曲があるが区別しにくい。2000年・2005年に紅白に出場。なお、活動停止後もソロとして谷村新司と堀内孝雄が活動中。 谷村はポップス路線(「昴」でヒット)、堀内は演歌路線(「Thank you!」と歌い終わるのは有名)に。 ジャンルが分かりにくいのはそのためだったのか。

(補足)
かぐや姫の「神田川」の歌詞中に「三畳一間」とあるが、「四畳半フォーク」と呼ばれていた。正確には、やはり三畳のほうが正しいという。 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はタイトルもグループ名も曲の演奏時間も全てが 長い。4分34秒。当時としてはかなり長い。反対面の「カッコマン・ブギ」は2分26秒。いや~、長い長い。 フォークは75年頃から「ニュー・ミュージック」と呼ばれることになる。根っからのファンはこの呼び名を嫌った。

Part3

1978年、チューリップというバンドが「虹とスニーカーの頃」というヒット曲を出した。チューリップは本来Part2で紹介すべきだったと反省しているが、紙面(?)の都合上、こちらで紹介しておきました。1973年に「心の旅」を、1975年に「サボテンの花」をヒットさせていたが、この曲はかつての曲とは異なっていた。まずは、音がいい。これを聞いて驚いたファンもいただろう。何せ、曲調も違ったからである。当時の所属先のレコード会社の設備がこの頃変わったと思われる。そのため、音が格段とよくなった(でもレコードなので…)。このグループは、リーダー的存在の(リーダーなのかまだ分からないので)財津和夫のビートルズ好き(ビートルズについてはPart1で触れています)もあるのか、ビートルズっぽさも表れている。そんなチューリップはフォーク・ロック・ポップの全ての要素が含まれたアーティストだった。だがこの曲の大ヒット後それ以上のヒットを出ずまた、メンバーの脱退等もあり、一時は存続の危機にまで瀕したが、1989年に解散した。 そして、1979年冬、苦節10年というとあるグループが大ヒット曲を発売。曲名は「さよなら」。アーティストはオフコースである。この曲は冬の名曲の一つでもあり、今でも時々TVメディアで流れるほどだ。元々は1970年に結成されたグループで70年代後半になって注目を浴びるようになった。そしてこの曲で大ブレイク。他に有名な曲としては、明治生命(現:明治安田生命)のCMソングの「言葉にできない」、今年の日テレのドラマ・コンプレックスのあるドラマ(タイトル忘れた)で主題歌として使用された「愛を止めないで」などがある。後に主のメンバーだった鈴木康博が脱退し、その後他のレコード会社に移籍するなどのことはあったが、1989年に解散、紹介した3曲で作詞・作曲をした小田和正がソロで再出発。実はソロでもヒット曲を出している。時代はこれとは後になるが、フジテレビ系の「東京ラブストーリー」の主題歌である「ラブ・ストーリーは突然に」が270万枚を売る大ヒット。昨年はアルバム「そうかな」をリリースし、現在も精力的な活動を行っている。 (補足…オフコース関係) 「そうかな」の収録曲は全曲CM、TVで使用されています。その一部を紹介します。 「Re」…トヨタ自動車の「アリオン」で使用。本人も出演。(放送終了)ちなみに「アリオン」は家の父親の愛車です。 「まっ白」…TBSのトリノオリンピックテーマソングとして使用。(放送終了) 「大好きな君に」…NHKアニメ劇場「雪の女王」のエンディングテーマとして使用。(放送終了) 「たしかなこと」…明治安田生命の企業CMで使用。現在も放送中。 (補足…チューリップ関係) 現在どこの放送局か分かりませんがAMで「財津和夫の人生ゲーム」という番組がO.A.されているそうです。詳しくは分かりませんが…。 追加:東海ラジオで放映されていました。製作も東海ラジオです。この番組は一時終了していたが、現在「財津和夫の人生ゲーム21~心の旅~として放送されているものだった。」

(補足)
かぐや姫の「神田川」の歌詞中に「三畳一間」とあるが、「四畳半フォーク」と呼ばれていた。正確には、やはり三畳のほうが正しいという。 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はタイトルもグループ名も曲の演奏時間も全てが 長い。4分34秒。当時としてはかなり長い。反対面の「カッコマン・ブギ」は2分26秒。いや~、長い長い。 フォークは75年頃から「ニュー・ミュージック」と呼ばれることになる。根っからのファンはこの呼び名を嫌った。